暗闇

 

 暗闇は、今日、次第に人々の生活空間から排除されつつあります。


 暗闇を恐れ嫌う人も多くいます。自分にとって未知の世界、理解できないものが嫌だからでしょう。でも、暗闇は、静けさと気配に包まれた、想像と物語の宝庫です。すべてを受け入れ、また与える豊穣の空間です。そんな暗闇を自分達の生活から追い払おうとするのは、自らの想像力を貧弱にし、生活そのものを痩せ細らせていく事だと思います。異質のもの、わけの判らない未知のものと隣り合わせの暮らしこそ、わたし達の生活を豊にするため大切、とわたしは思います。

 

 子供の頃、庭続きに伯父の家があって、それはいたるところに暗闇の漂うような家でした。深閑とした表玄関、誰もいない長い廊下、その奥の箱のような電話室、扉の開かない図書室、伯父の趣味の手品のしかけが仕舞ってある次の間、そして暗闇へと続く階段!

 
 わたしは、ひとり、そんな暗闇に迷い込んでは、その静けさと気配とに耳を傾けていました。しばらくしてお茶の間に戻ると、そこでは大人達がお茶を飲んだりおしゃべりをしていて、わたしはふいに日常へとひき戻されました。このお茶の間と、あの暗闇の世界が並列に存在しているのが子供心に不思議でした。そして大人達に混じり、明るいお茶の間でお菓子などを食べながら、自分にとっては、あの暗闇の世界の方が本当なのだろうと感じていました。というより、同じように現実だったのでしょう。あちらの世界とこちらの世界とがあって、自由に行き来しながら、わたしは幼年時代を過ごしました。わたしにとって、豊かな暗闇と、そこに通じる階段は、自分の原体験を描写する「失われし時」なのです。

鉛筆

 

 なぜ鉛筆で描くのか。
 暗闇は、幾重にも重なる空気の層から成っています。その層の成した暗闇を描くには、やはり幾重にも筆を重ねる以外にありません。鉛筆一本一本の線が、層となり、空間となっていきます。その空間を描くのに、ある程度の時間のエネルギーが費やされることが必要です。一見、無駄に見えるような作業ですが、この積み重ねを経ないと、言葉にならない気配や物語の詰まった暗闇になりません。また、最終的には黒く塗りつぶされてしまうにしても、階段や本棚の細部の装飾まで、しっかりと描き込んでから闇の層を重ねます。何も描かずにただ黒く塗りつぶせば、そこには、何もない、ただの黒い平面になってしまいます。わたしが描きたいのは、未知なる空間と、それに費やされた時間と言えます。

階段

 

 どの階段の多かれ少なかれ天へと向かっています。
 「ここ」から「彼方」へと誘うもの。
 この階段を昇ると、どんな世界へと通じているのだろう。
 昇った後を振り返ると、どんな風景が拡がっているのだろう。

 

 階段とは、人間の意志と力によって積み上げられたもの、地球上のあらゆる文明は、皆、階段を創ってきました。つい最近まで、階段は、その文明の力の象徴でした。John Templerによると、建築の重要な要素としての階段のピークは17世紀バロック時代だったということです。それ以降、階段の重要性は衰退を続け、モダニズムを経て現代建築では、空調や配管のような設備のひとつとして裏側に追いやられてしまいました。それと共に人間の繁栄もそろそろ終焉に近づいているように、わたしには思われるのです。

 

 これらの階段は、わたしが旅先で出会った階段です。文化の殿堂を誇って傲然と立ちはだかる階段、今はもう人が昇り降りすることも無くなり、昔の賑やかだった日々を夢見ている階段、数百年、人々の営みを眺めていた階段、オスカー・ワイルドがこの世の最後に昇った階段・・・
その階段にも歴史と物語があって、それぞれの階段に人格を与えているように見えます。

 

 本はまったく油断がならない。棚に並んで鎮まりかえっているくせに、近づくと、こちらを見下ろして目配せをする。一冊を選んでいるつもりが本当はこちらが選ばれて、手に取らされている。扉を開ければ、千年の記憶やひとりの人間の想念に引き込まれ、その物語に立ち会うことになる。距離も時間もない、大いなる世界が片手で持てるほどの小さな物体の中に閉じ込められているもだから、考えれば考えるほど本は怪しい。人間は、よくもこんな不思議な宝物を創り出したものだ。


 本は、人間が創ったあらゆる物のなかでも特に美しい。4世紀には既に今見るようなかたちを持ち、7世紀には宝石のようなリンデスファーンの福音書が創られた。中世を通じて、本とは、写字生が一生をかけて一文字一文字書き記す、この世にひとつしかないものだった。1456年、本は初めて印刷され、同じものがふたつ以上存在するようになった。以来、しだいに多くの人の手に届くものになり、いつしか玉石が混じることとなる。本当の宝物として書架に鎖で繋ぎとめられていた時代は遥かに遠く、今では日々大量の書物が製造され、消費され、破棄されている。それでも今日まで本が創られない日はなかった。しかし、コンピューターの出現によって、かたちと質量を持った本は、その存続さえも危うい時代にさしかかってきた。


 数年前、わたしは階段の絵を描いた後、次は本を描くのだと決めていた。人間の手の創り出した賢く美しいもの、なのに、その存在が脅かされているものを描きたかったからだ。しかし、描けなかった。わたしが、本のかたちばかりを知りながら、その真の重みをあまりにも知らなかったからだろうか。しばらくあちこちの図書館を巡った末に、わたしはオックスフォードに辿りつく。この名高い学問の府に降り立った時、わたしのようにアカデミズムに縁のない人間が、なぜここに来たのだろう、ここで何をするのだろうと不思議だった。しかし、オックスフォードは、珠玉のような図書館を、数えきれないほど抱えた街だったのである。わたしは図書館に導かれてオックスフォードを訪れたのだ。一年を学問に親しんで過ごした後、わたしは、やっと本を描き始めた。

 

 ここに描かれているのは、12世紀から続く学問の街の、石塀に幾重にも囲まれ、鍵のかかった扉の奥にひっそりと隠れたいくつかの図書館の肖像である。最も古いものは1373年に建てられている。図書館とは、知識や思想や物語が保存され、そこに学んだ人々の記憶が蓄積されているところだった。

音楽

 

 わたしにとって、音楽とは、生きる喜びそのものです。生まれた時から、あるいは、生まれる前から、わたしは音楽に包まれていました。音楽は、わたしがこの世に送り出される時、携えていくようにと与えられた友であり、糧でした。


 わたしは音楽を生業とする家に生まれました。それなのに、どういうわけか、音楽を奏でる才も、創る力も、わたしには、自分が望むようには与えられませんでした。仕方がないので、わたしはひとりのつつましい生徒として、耳を澄ましてその言葉を聴き、想いをめぐらし、かたちにあらわれたものを、ただ見つめていたように思います。音楽は、耳にだけではなく、目にもまた、美しかったのです。

 

 音楽は、古代ギリシャの7つの学問[文法、修辞学、弁証法の3科、算術、幾何学、天文学、音楽の4学]の1つに数えられ、今日、文化芸術とされるものの中で唯一、ギリシャの昔から、学ぶに値するものとされていました。それは、音楽の中に数と理論を内包されているからでしょう。そして人間の魂に不可欠なものだと知っていたからだと思います。


 ギリシャの神々の中で音楽を司るのはアポロンとディオニソスです。アポロンはリラ(竪琴)を手にし、ディオニソスはアウロス(葦笛)を奏でました。神々が愛した竪琴と葦笛からは、数々の楽器が生まれました。弦楽器ヴィオロンチェッロは竪琴の、パイプが一本の笛から成るオルガンは葦笛の、それぞれの遠い子孫と考えられます。

 

 オルガンとヴァイオリンは、西洋の楽器の中で、もっとも姿の美しい楽器だと、わたしは思っています。共に古代に生まれ、16世紀末から18世紀前半までのバロック期に完成されました。


 オルガンの起源は、紀元前3世紀アレクサンドリアの床屋で職人だった(技師で外科医でもある)クテシビオスが創った、水力を利用したヒュドラウルスだとされています。これがギリシャに伝わって、大きな音の出る空気オルガン、ニューマチックとなり、ビザンチン文化として各地に伝わりました。ローマ帝国の崩壊によって、一端途絶えたオルガンがヨーロッパに戻るのは、757年、コンスタンチン大帝コプロニウムからフランク王ピピンに贈り物として送られてからと言われています。10世紀から12世紀頃までに教会に設備されたオルガンは、以来、教会音楽の発展と共に、しだいに大型になり、16世紀末から18世紀前半、バロックの時代にその全盛期を迎えました。


「オルガンの語源はギリシャ語のオルガノン。それは道具、器具、楽器の意味で、聖書バイブルが書物ビブリオに由来し、書物の中の書物という名を与えられたように、オルガンは楽器の中の楽器として、その名を与えられた」     音楽学者フーゴー・リーマン(1849-1919)

 

 オルガンに比べてヴァイオリン属楽器の起源は、はっきりしていません。弓を使う擦弦楽器としては、紀元前2000年?3000年頃、ランカ(セイロン)のラヴァナという王様が創った弓奏楽器があったという伝説があり、おおよそ10世紀頃に西洋に伝えられたと言われています。 キターラと呼ばれた竪琴が直接の祖とされる現在のヴァイオリンは、数々の変遷を経て1520年頃にそのかたちの変化がほぼ終わりました。17世紀に入り、ストラディヴァリなどの楽器職人たちが完成させた楽器を超えるものは、その後、今日まで創られてはいません。

 

 これらの楽器が完成された16世紀から18世紀前半までのバロック期。その頃は、作曲家や演奏家といった存在はなく、ただ職人たちがいただけでした。楽器をつくる人々、音楽をつくる人々、そして、それを演奏する人々。みな、等しく職人でした。


 わたしは、その人々の仕事を、その手の技のあとを、なぞってみたいと思いました。 
 願わくは、同じ職人として。